【第27回】「小台湾」はどこへ消えたのか――調景嶺という香港の異空間
ニュータウン調景嶺の現在
MTR将軍澳線の調景嶺といえば、今では高層マンションと大型ショッピングモールが立ち並ぶニュータウンとして知られています。しかしこの場所には、香港でもかなり特異な歴史が眠っています。

Rennie’s Millの由来
調景嶺は英語でも、広東語の発音をそのまま写した “Tiu Keng Leng” と表記されます。しかし昔は “Rennie’s Mill” と呼ばれていました。20世紀初頭、カナダ人実業家アルフレッド・レンニー(Alfred Herbert Rennie)がこの地で製粉工場を始めたことに由来します。
ところが事業は失敗。1908年、レンニーは海に身を投げて自殺したとされています。
照鏡嶺から吊頸嶺へ
実は元々、この地域の地名は「照鏡嶺」でした。その由来については、海面が鏡のように穏やかだったからという説や、地元の客家の女性たちが農作業でかぶる帽子が、日光を反射して鏡のように見えたから、など諸説あります。
しかしレンニーの死後、なぜか「工場で首吊り自殺をした」という噂が広まり、いつしかこの地域は「吊頸嶺(首吊り嶺)」という不穏な俗称で呼ばれるようになります。
その後、この地域はしばらく開発から取り残され、半ば放置された土地となっていました。
国共内戦と秧歌舞事件
1949年、国共内戦により共産党政権が成立すると、中国本土から多くの国民党関係者や反共系市民、その家族が難民として香港へ逃れてきました。
当初、国民党系難民の一部は、香港島西側の摩星嶺周辺に形成された難民キャンプで生活していました。しかし1950年の端午節、「秧歌舞事件」と呼ばれる騒動が発生します。親共産党系の左派グループ約260人が摩星嶺地区へ赴き、共産党の祝賀行事などで披露される秧歌舞を踊ったことで国民党系難民と衝突、暴力的な騒動へと発展しました。
この事件を重く見た香港政府は、双方の勢力圏を分離する必要があると判断し、国民党系難民を、当時ほとんど開発されていなかった現在の調景嶺へ集中的に移住させます。
小台湾と地名改称「調景嶺」
当時の調景嶺は、香港の中でも極めて特殊な地域でした。
街には中華民国の青天白日旗がはためき、広東語よりも北京語が飛び交い、住民の多くは強い反共意識を持っていました。やがて、この地域は「小台湾(Little Taiwan)」と呼ばれるようになりました。
また香港政府は、「吊頸嶺」という縁起の悪い名前を嫌い、同じ発音に近い「調景嶺」に改称します。「調整景況(状況を立て直す)」という前向きな意味を込めたとも言われています。

住民移転と小台湾の消滅
では、その「小台湾」はどうなったのでしょうか。
1980〜90年代、香港返還が近づく中で、将軍澳ニュータウン開発が本格化します。バラック群は撤去され、山は削られ、海は埋め立てられました。
かつての住民たちは公営住宅へ移転し、一部は台湾、カナダ、アメリカなどへ移民していきます。

調景嶺全體居民反迫遷保權益委員會
1990年代、香港返還前後の将軍澳開発に伴い、調景嶺の住民移転問題が本格化し、この委員会が香港政府との交渉窓口的な役割を果たしました。
(Photo : Joseph Lee CC BY-SA 3.0, via WIKIMEDIACOMMONS)
こうして「小台湾」は、都市開発の波の中で溶けるように消えていきました。

現在の街並みと地層に刻まれた歴史
そして現在。調景嶺には、当時の面影はほとんど残っていません。海沿いにはタワーマンションが立ち並び、MTRが走り、若いファミリー層が暮らすベッドタウンとなっています。
しかし、この整然としたニュータウンの地層には、国共内戦、難民流入、香港返還、大規模都市開発という20世紀東アジア史のうねりが折り重なっているのです。


幾重もの歴史が積み重なり、今の姿が形づくられているんですね。
まとめ
- 調景嶺は元々「照鏡嶺」と呼ばれた
- 製粉工場失敗でレンニー自殺
- 噂から「吊頸嶺」と不吉な俗称に
- 国共内戦後、国民党系難民が移住
- 青天白日旗翻る「小台湾」と化す
- 80〜90年代開発で姿を消した













