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【第24回】ちょっと不憫な香港雑学集

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【第24回】孫文を支えた日本人実業家――梅屋庄吉と香港

孫文と香港の深い縁

上環から中環あたりを歩いていると、香港という街と孫文(孫中山)との縁の深さを感じさせる史跡が目に留まります。孫中山史蹟徑には16のスポットが整備され、若き日の孫文が学び、語り、動いた場所が、いまも街の中に点々と残っています。香港は孫文にとって、単なる通過点ではなく、革命の気運を育てた重要な舞台でした。

革命を支えた日本人・梅屋庄吉

ただ、その孫文を長く支え続けた日本人のことは、あまり知られていません。梅屋庄吉。長崎生まれの実業家で、若いころ香港で「梅屋照相館」を営み、写真業で成功を収めた人物です。その後は映画興行・映画事業へと進み、日本活動冩眞株式會社(のちの日活)の創立に携わった人物として知られるようになります。孫文を支えた資金の背景には、こうした商売の才覚と実業家としての成功がありました。

上海にある梅屋庄吉像
Photo : BUNKA1911 CC BY-SA 3.0, via WIKIPEDIA

出会いと「財で支援」の誓い

二人が出会ったのは1895年、香港でした。慈善パーティーで初めて顔を合わせ、その二日後に孫文が梅屋の写真館を訪ねたことから親交が深まったとされます。そこで交わされた会話のなかで生まれた、有名な言葉があります。

「君は兵を挙げよ、我は財をもって支援す」

出来すぎた台詞にも見えますが、梅屋はこれを実際に貫きました。

しかも梅屋の役割は、単なる資金提供にとどまりませんでした。孫文は日本を重要な活動拠点の一つと考え、中国と日本をたびたび往復しましたが、その過程で梅屋は東京の自邸に迎え入れ、ときにかくまい、精神的にも支えたと伝えられます。もちろん、孫文を助けた日本人は梅屋一人ではありませんでした。後に首相となる犬養毅や、宮崎滔天、頭山満らも支援者として名を連ね、在留華僑もまた革命運動を支える力となりました。そのなかにあって梅屋庄吉は、ひときわ腰の据わった支援者の一人だったのでしょう。

顕彰活動と歴史に残らぬ名

香港という街は昔から、商人、亡命者、革命家、仲介者が入り交じる場所でした。理想だけでもなく、損得だけでもない。虚実入り混じり、清濁併せ呑むこの都市の性格が、革命家と実業家である孫文と梅屋の関係にも、そのまま映し出されているように思えます。梅屋は孫文の死後も私財を投じて銅像4体を制作し、広州、南京、マカオなどに贈って、その偉業を後世に伝えようとしました。

それにしても不思議なのは、香港の街に孫文の名はあちこちに残っているのに、梅屋庄吉の名はほとんど見えてこないことです。表に立つ人の名は残っても、陰で支えた人の名は薄れ、忘れられていく。歴史とはそういうものかもしれません。けれど、街の厚みとは、むしろそうした人たちによって形づくられているのではないでしょうか。大革命家のそばにいた長崎生まれの実業家の存在が、そんなことをあらためて思い出させてくれます。

陰で革命を支えた人物が存在した事を心に留めおきましょう!

まとめ

  • 孫文と香港の深い縁を示す史跡
  • 革命の舞台となった香港の役割
  • 孫文を支えた日本人実業家梅屋庄吉
  • 写真館成功から映画事業へ進出
  • 「兵を挙げよ、財で支援す」の誓い
  • 孫文死後も銅像制作で偉業を顕彰

次回記事は4月22日 公開予定です!

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この記事を書いた人

香港生活20ウン年。年々クリーンに生まれ変わる香港で、いかがわしさとしたたかさの残り香をひっそりと嗅ぎ漁っています。

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