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【第12回】ちょっと不憫な香港雑学集

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【第12回】香港とアジアを動かした英国財閥──ジャーディン・マセソン

スワイヤーと並び、香港を語る上で欠かせない英国系財閥のひとつがジャーディン・マセソン(怡和洋行)です。

1832年創業、広州で貿易商会設立

20世紀初頭まで20 Pedder Streetにあった初代ジャーディン・ハウス
出展:Wikimedia Commons

創業は1832年、スコットランド出身の医師ウィリアム・ジャーディンと実業家ジェームズ・マセソンが広州で商会を設立したことに始まります。茶葉や綿花の貿易で発展し、アヘン取引で巨利を得たことでも知られます。

1841年の英国による香港占領を機に香港に拠点を構え、植民地政庁と密接に結びつきながら「政商」として大きな影響力を振るいました。

ジャーディン・マセソンの代理人、薩摩・長州のトーマス・グラバー

日本との関わりも深く、幕末期に長崎で活動したグラバー商会のトーマス・グラバーはジャーディン・マセソンの代理人でした。グラバーはジャーディンの資金力と取引網を背景に武器輸入や造船所経営を進め、薩摩や長州との交流を通じて日本の近代化の陰で重要な役割を果たしました。

現在も地名や風習に残るジャーディンの痕跡

香港におけるジャーディンの本拠は銅鑼湾に置かれ、今も地名や風習にその痕跡が残ります。

銅鑼湾・東角にあったジャーディンの拠点(社屋や倉庫を備えていました)
出展:Wikimedia Commons

香港島東部の高台「ジャーディンズ・ルックアウト」は、同社が香港に入港する自社船を監視する望楼を設けたことに由来します。

また観光名所「ヌーンデイ・ガン」は、本来は政府高官や海軍上級将校にのみ許された礼砲を、ジャーディンが自社幹部や大物客の到着時に私設軍に撃たせていたことを英国海軍が問題視し、“罰”として毎日正午に一発だけ撃つことを義務付けたのが始まりとされます。

やがてこれは正午の時報代わりとして市民に親しまれるようになり、現在も観光名物として受け継がれています。さらに

  • 勿地臣街(Matheson Street)
  • 渣甸街(Jardine’s Bazaar)
  • 怡和街(Yee Wo Street)

といった通り名もジャーディンに因むものです。

ジャーディンズ・ルックアウトからビクトリア湾を臨む(撮影:中洲三太郎)

多業種へ展開

20世紀に入ると、ジャーディンは多角化を進めました。不動産では中環の「ランドマーク」「エクスチェンジ・スクエア」「ジャーディン・ハウス」といったフラッグシップ物件を擁する香港置地(Hongkong Land)、小売では乳業を起源とするデイリーファーム(Dairy Farm)がスーパーマーケット「Wellcome」、ドラッグストア「Mannings」、コンビニ「7-Eleven」を展開。

飲食ではMaxim’s(美心)グループがベーカリーや中華レストランを基盤に、スターバックス、シェイクシャック、一風堂などの国際ブランドも手がけ、ホテル事業では「マンダリン・オリエンタル」を世界的ブランドに育て上げました。

現在もアジア経済に強い影響を持つジャーディン

ジャーディン・マセソンの本部が入居するセントラルのジャーディン・ハウス

ジャーディン・マセソンは現在も持株会社をシンガポールに置きつつ、香港や中国本土、東南アジアで事業を展開する巨大コングロマリットとしてアジア経済に強い影響力を保っています。茶やアヘンの取引で成長し、幕末日本の近代化にも関与、返還期には香港から距離を置く姿勢を見せ、「日和った」とも評されたジャーディン。その歩みは、スワイヤーと好対照をなしながら、香港のもうひとつの経済史を映し出しているのです。

香港に関わる英財閥の歴史が見えてきます!

まとめ

  • 1832年創業、広州で貿易商会設立
  • アヘン取引で巨利、香港に拠点
  • 幕末日本の近代化に関与
  • 銅鑼湾に本拠、地名に痕跡残る
  • 多角化で不動産・小売・飲食展開
  • 現在もアジアで影響力を保持

次回記事は10月22日 公開予定!

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この記事を書いた人

香港生活20ウン年。年々クリーンに生まれ変わる香港で、いかがわしさとしたたかさの残り香をひっそりと嗅ぎ漁っています。

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