【第3回】九龍はどこまで?新界はどこから?──街に刻まれた境界の記憶
九龍──狭義と広義の違い
香港が三つの地域──香港(島)・九龍・新界──に分かれているのは、皆さんご存じのとおりです。でも、香港(島)はすぐわかるにしても、「九龍って、どこまで?」「新界って、どこから?」と問われると、意外と答えるのが難しいかもしれません。
もともと「九龍」は、九龍半島を指す地理的な呼び名で、現在の九龍区域に加え、新界南部までを含む広い地域を意味していました。一方、行政上の「九龍」には、歴史的に二つの定義があります。

境界線が生んだ歴史的なねじれ
一つ目は、狭義の九龍。これは1860年、清朝とイギリスが締結した北京条約により、イギリスへ割譲された九龍半島南部を指します。地理的には、尖沙咀から旺角・太子あたりまでの地域です。
この領域の北端に設けられたのが、かつて「界限線(Boundary Line)」と呼ばれた線。イギリスが最初に支配した割譲地と、後から租借した新界との境界であり、当初は密輸を防ぐための竹柵が設けられていたとされています。
もう一つが、広義の九龍です。1937年、香港政庁は都市圏の拡張に伴い、当時の新界のうち、市街地に近い南部一帯から獅子山や筆架山といった丘陵地にかけての地域を、「新九龍」として行政的に九龍に編入しました。この区域には、深水埗、九龍塘、九龍城、黄大仙、觀塘などが含まれます。
やがて租借地も実質的にイギリスの支配下に入ると、界限線は「旧辺境線(Old Frontier Line)」と呼ばれるようになり、次第に形骸化していきます。当初この線上に正式な道路はありませんでしたが、1934年、九龍塘地区の発展に伴い地税の扱いをめぐる問題が生じ、香港政庁は境界線上に一本の道路を建設しました。これが現在の「界限街(Boundary Street)」です。

界限街──道路に刻まれた都市の記憶
九龍半島の中腹を東西に貫く界限街は、深水埗区の起点から九龍城区の終点までを結ぶ幹線道路のひとつで、終点近くには、再開発によって生まれた啓徳の新しい街が広がっています。
界限街の北側に位置する「新九龍」は、1937年に行政上は九龍の一部とされましたが、法的には現在も「新界」に含まれる扱いとなっています。そのため、新九龍の不動産には新界と同様の地代(地租)が課される一方で、界限街より南の旧九龍では、ごく低い象徴的な地税しか課されていません。行政と登記制度の“ねじれ”が、今なお続いているのです。
私たちが日常的に通っているこの道は、かつて「ここから先は別の領域」とされた記憶を今に伝えています。界限街は、香港という都市の成り立ちと、その重層的な歴史を静かに語りかける一本の「境界線」なのです。

まとめ
- 1934年に界限街が建設され、名残を残す
- 九龍は地理的名称と行政区分で異なる
- 狭義の九龍は1860年に英領となった地域
- 新九龍は1937年に九龍に編入された地域
- 界限線は旧九龍と租借地の境界だった