最初は気ままな「環境まかせ」だった
私がバイリンガル教育の重要性について実感し、のちに英語の教育事業に携わるまで至るきっかけとなったのは、私自身の長い海外駐在経験と、それに伴う2人の息子の言語習得を間近で見た経験からでした。ここでは、息子たちの海外での成長の変遷をご紹介し、日本人家庭における海外生活での教育の参考にしていただきたいと思います。
マニラで始まった「ことばが混ざり合う幼少期」
私たちは、子供が2歳と3歳のときに日本を離れました。これが、私たち家族の約50年にわたる海外生活の始まりでした。
最初の任地はフィリピンのマニラでした。
幸いマニラの自宅はかなり広くメイドさんも2人雇い入れることができました。
一人が料理担当、一人が掃除および子供のお世話をする担当でした。
彼女たちの部屋は中2階にあり、子供たちはいつもその部屋で遊んでいました。私も家内も知らないうちに子供たちはどんどん地元の言語のタガログ語を覚えていました。
うちの男の子2人兄弟はどこにいくのも一緒でした。ときに兄弟げんかの際にはタガログ語と日本語でやりあっているのを見て家内も私も驚いたものです。子供たちはこれがタガログ語、これが日本語との区別などついていません。
幼少期に多言語に触れて育つというのは、こういうことかと知らされました。
同時にビレッジのなかにある幼稚園に通っていました。ビレッジのなかは完全にセキュリティが確保されてとても安全でした。子供たちも多国籍で、米国、カナダ、イギリスなどの英語圏インド、中国などでした。
マニラの生活は約2年で終わりました。そのころのフィリピンの方々の親切さ、情愛あふれる人々を後にして、LA勤務となります。
アメリカでは「学区」の格差を実感
LA は日本人コミュニティ、日系人社会の歴史も長く、日本人家族が過ごしやすい環境は大変発達していました。息子たちは、それぞれ公立の小学校、幼稚園に通い、毎日楽しくて仕方がないようでした。 フィリピン時代に培った英語も手伝ってか、自然とお友だちの和に溶け込んでいるようで、親の私たちも子供の英語教育についてほとんど気にすることはありませんでした。
ところで、アメリカの公立の小学校はどこも同じレベルだと思われますが、明らかに地区別にひらきがあります。同じ公立でも富裕層、中流層、貧困層と、地域レイヤーが歴然とあるのが現実です。
しばらくのち、私は日系人やアジア人の成功者が数多く住んでいる地区に住宅を買い求めました。そこは白人のビバリーヒルをもじってイエローヒルとも揶揄されていましたが山の中腹でクジャクが飛んでくる。太平洋が見える素晴らしい場所に引っ越しです。
その地域での子どもたちの学校は、大変豊かな素晴らしい環境の公立の小学校でした。
アメリカで意思表示の大切さも学ぶ
その学校では日系企業の責任者クラスの子弟も通っていました。 気の良い長男はそうした日本の子どもたちのために、英語と日本語の通訳をいつもかってでて先生に重宝がられていました。
殆ど英語を苦にしていなかったので、どうやら現地で在米日系人とまわりから思われていたようです。
優良なエリアは教育レベルも高いというメリットがありますが、一方でびっくりするような事実もあります。富裕層の子弟が通うゆえに購買力があるとみられ、登校、下校の際に子どもに紛れ込んでドラッグの売人がいるのです。アメリカでは小学校の時分から「Say No to Drug」 と教え込んでいる理由がよく理解できました。
いわゆる英語だけでなく、しっかりと「No」を言う態度も含め、自由主義のアメリカらしい教育の始まりでもありました。
執筆者プロフィール
清水 大輝
米国に17年間滞在し、キャデラック、クライスラーなど主要自動車メーカー向けエンジン開発にサプライヤーとして従事。
その後、香港を拠点にアジア各国へ滞在。中華圏48拠点の販売網構築、販売法人3社の設立、上海松江および中山市での化学工場設立を主導。マレーシア、タイ、台湾、フィリピンなど華僑ネットワークとの取引を通じ、多様な商習慣と経営文化に精通、アジア市場での事業拡大に大きく貢献した。現在、フィリピン在住。
香港在住時は香港福岡県人会会長を務め、世界大会への参加等を通じ福岡県出身者の絆の強化に尽力した。
現在は英語のオンライン学習事業を立ち上げ、日本・中国で展開。英語教育に力を注いでいる。

