【第17回】香港の暗い12月──ブラッククリスマスと「三年零八個月」
今回は、重く、しかし避けて通ることのできない歴史の一頁を取り上げます。
三年零八個月──香港の日本占領期
多くの日本人にとって12月8日は、1941年の真珠湾攻撃、すなわち太平洋戦争の開戦日として記憶されています。しかし同じ日、ここ香港でも、日本軍による攻撃が始まりました。
1941年12月8日、日本軍は中国大陸側から香港への侵攻を開始します。新界、九龍半島での防衛戦の後、日本軍は香港島に上陸し、同年12月25日、英国軍は降伏しました。この日は後に「ブラッククリスマス」と呼ばれるようになります。
以後、香港は約3年8か月にわたり日本軍の占領下に置かれました。香港で単に「三年零八個月」と言えば、日本占領期そのものを指す言葉として通ってきました。
人口激減と軍票強制
占領期、日本軍は中環の香港礼賓府(Government House)を拠点として統治を行いました。
占領開始後、内地への避難や強制的な帰還政策などによって、香港の人口は推計約160万人から約60万人へと激減しました。残された市民は配給制度のもと、慢性的な物資不足に耐える厳しい生活を強いられます。
香港ドルの使用は禁止され、日本軍が発行した軍票への交換が強制されましたが、乱発によって深刻なインフレが進行しました。1945年の日本降伏と同時に軍票は無価値となり、多くの市民が一夜にして財産を失うことになります。

出典:WIKIMEDIA COMMONS
日本風の名称へ
また、象徴的な統治の一環として、一部の地名や主要道路が日本風の名称に改称されました。代表的な例としては、
- 太平山(Victoria Peak) → 香ヶ峯
- 淺水灣(Repulse Bay) → 綠ヶ濱
- 跑馬地(Happy Valley) → 青葉峽
- 皇后像廣場(Statue Square) → 昭和廣場
- 彌敦道(Nathan Road) → 香取通
- 皇后大道中(Queen’s Road Central) → 中明治通
などがあります。
歴史理解に求められる慎重さと謙虚さ
そして1945年8月、日本の敗戦により香港の施政権は英国に返還されます。
歴史は多面的で複雑なものであり、その理解や解釈には慎重さと謙虚さが求められます。現在も研究者が史料に向き合い、丁寧な検証を重ね続けているのはそのためです。歴史の一部を切り取り、自国や特定の思想に都合よく解釈することは避けるべきでしょう。
一方、香港で暮らす外国人として、この地に「住まわせてもらっている」立場にある以上、母国と香港の間にあった歴史を「知らなかった」で済ませてよいのか、一考の余地はあります。少なくとも、現時点で明らかにされている知見に触れ、理解を深めようとする姿勢は、改めて意識されてもよいのかもしれません。
同時に、敗戦後の日本を焼け野原から立て直してきた先達の忍耐と努力、そして複雑な歴史を経ながらも、そんな日本の文化や製品、さらには私たち日本人そのものを受け入れてきた香港の人々の寛容さと未来志向の姿勢に、改めて敬意と感謝を向けてみることにも、少なからぬ意味があるのではないでしょうか。

香港の歴史に触れることは、その地に暮らす者の大切な姿勢だと思うのです。
まとめ
- 1941年12月8日、日本軍が香港侵攻開始
- 12月25日降伏、「ブラッククリスマス」と呼称
- 約3年8か月の日本占領期=三年零八個月
- 人口激減、配給制度下で物資不足生活
- 軍票乱発でインフレ、敗戦後無価値化
- 地名改称、象徴的統治の痕跡を残す













