【第7回】失われた香港──消えた地名の謎「下環」
「上」「中」があるのに「下環」がない!?
香港島北岸の中心部には、「環」のついた地名がよく見られます。交易拠点として栄えた「上環(Sheung Wan)」、政治・金融の中心地である「中環(Central)」、さらに西側には、移民の居住地として発展した「西環」もあります。
けれども、「上」「中」があるのに、「下環」が存在しないのはなぜでしょうか?
上環、中環ときて、いきなり「金鐘(Admiralty)」に飛ぶ地名の並びを、不思議に思ったことはありませんか。
「下環」は20世紀初頭まで存在
実は「下環」という地名は、かつて確かに存在していたのです。
19世紀中頃から20世紀初頭にかけて、香港島北岸の中心部は「維多利亞城(City of Victoria)」と呼ばれ、「四環九約」と呼ばれる行政区画に分けられていました。
「下環」は灣仔から銅鑼灣一帯に相当
「四環」とは、「西環」「上環」「中環」「下環」の4つを指し、「下環」は現在の灣仔から銅鑼灣一帯に相当します。
この「四環」はさらに、「九約」と呼ばれる小区画に細分されていました。第四約は現在の上環駅周辺、第六約は金鐘近辺、第九約は銅鑼灣一帯にあたります。これらの区分は、当時の生活圏や市場の形成と密接に関わっていた地域単位でもありました。
ところが20世紀に入ると、「下環」という呼称は行政文書や日常の言葉から次第に姿を消していきます。
なぜ「下環」だけが“忘れられた地名”となってしまったのでしょうか。
地区開拓により「下環」地区が細分化
その理由のひとつは、上環や中環が一貫して行政・交通・商業の要衝として機能し続けてきたのに対し、「下環」は再開発によって複数の新しい地域に細分化されていったためです。
特に灣仔以東では、埋め立てや道路整備により、旧来の地形や町並みそのものが大きく変貌しました。
かわって、「灣仔」「銅鑼灣」「跑馬地(Happy Valley)」など、より細かな地域を指す地名が人々の生活に定着し、「下環」という呼び名は徐々に使われなくなっていったのです。
いまも「下環」の存在を知る手がかりが!
そんな「下環」の存在を、いまに伝える手がかりが残されています。
それが、1903年に設置された「維多利亞城界石(City Boundary Stone)」です。
これは、当時の「維多利亞城」の境界線を示すために設けられた石碑であり、「四環九約」と呼ばれた行政区画制度の存在を現代に伝える貴重な歴史的遺構です。香港島の西営盤から跑馬地にかけて設置された10基のうち、今なお9基が現存し、市街地の裏道や坂道の片隅にひっそりと佇んでいます。
目立たない存在ではありますが、これらの小さな石碑は、失われた地名と都市の記憶を静かに語りかけてくれます。街歩きやハイキングのついでに、歴史の小さな証人たちを探してみるのはいかがでしょうか。


City of Victoria Boundary Stones | Lands Department

界石をめぐる街歩きも楽しいですよ!
まとめ
- 下環はかつて存在した歴史的地名
- 四環九約の行政区の一部だった
- 現在の灣仔〜銅鑼灣に該当
- 再開発で地域名称が細分化された
- 下環の名称は徐々に消滅した
- 界石が歴史の痕跡を今に残す