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【第13回】ちょっと不憫な香港雑学集

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【第13回】光に彩られた都市の残像──香港ネオン看板の興亡史

「百万ドルの夜景」と称される香港の輝き。その光を形づくっていたのはビクトリア・ハーバーを囲む高層ビル群と、夜空を染めた無数のネオンサインでした。戦後から1990年代にかけて、尖沙咀や香港島の繁華街を埋め尽くすように、ネオン看板が幾重にも重なり、まるで街全体が発光しているようでした。

1920年代 香港にネオン登場

香港にネオンが登場したのは1920年代です。広告条例でネオン管を使った看板が広告媒体として定義され、高級ホテルや外資系企業が試験的に設置したのが始まりでした。ただし当時は製造技術も電力供給も限られており、導入は一部の高級施設にとどまっていました。

1950年代 “Made in Hong Kong” 地域産業として本格的に普及

本格的に普及するのは第二次世界大戦後、1950年代に入ってからです。経済復興と都市化の進展で夜の街が活動の舞台となり、ネオンは理想的な広告手段とされました。同時期に「南華光管廠」などの地場工房が登場し、職人たちがガラス管の曲げや電極封入を手作業で仕上げました。こうしてネオンは輸入品から“Made in Hong Kong”へと変わり、地場産業として発展していきました。

1960~70年代 「百万ドルの夜景」 光の芸術を楽しめる時代

出典:WIKIMEDIA COMMONS

1960~70年代には、旺角や湾仔、中環、尖沙咀がネオンで埋め尽くされ、「百万ドルの夜景」の名にふさわしい光景が広がります。映画館、食堂、薬局、カラオケ、ナイトクラブまで、あらゆる看板が個性を競い合いました。中には金魚や龍をかたどった立体的なデザインも登場し、街を歩くだけで光の芸術を楽しめる時代でした。

日本企業の看板も存在感を放った黄金期

この黄金期には日本企業の看板も存在感を放ちました。ナショナル/パナソニックの巨大ネオンがネイザンロードを照らし、「世界最大級のネオン看板」として話題を呼んだ時期もありました。ほかにもソニー、東芝、三洋、ミノルタ、カネボウなどのロゴが香港の夜景の中で、日本製品の信頼性とブランド力を印象付けていました。

1990~2010年以降 急速に姿を消していったネオンサイン

しかし1990年代以降、LEDの普及や安全基準の強化によってネオンは徐々に減少し、2010年以降は急速に姿を消していきました。老朽化した看板の落下事故をきっかけに、政府は2010年に「Signboard Control System」を導入。違法看板の撤去が進み、維持コストの高さもあって多くの看板が取り壊され、職人も廃業しました。報道によれば、かつて数万点を誇ったネオンは、現在では数百基しか残っていないといわれます。

”香港らしさ”を取り戻そうとする試み

一方で近年では、M+美術館が「NEONSIGNS.HK」プロジェクトで看板の保存・デジタル記録を進めるなど、文化遺産としての再評価も進んでいます。若いアーティストやデザイナーが往年のネオン看板を再現し、街に再び“香港らしさ”を取り戻そうとする試みも始まっています。

かつて夜を支配したあの光は消えても、ネオンが照らした香港の記憶は、今も人々の心の中で静かに灯り続けています。

ネオンで彩られた黄金期の香港を見てみたいですね!

まとめ

  • 1920年代に香港でネオン看板が登場
  • 1950年代に地場産業として本格普及
  • 1960~70年代がネオンの黄金期
  • 日本企業の巨大看板も夜景に貢献
  • 2010年以降、規制強化で急減少
  • 現在は保存・再評価の動きが進行中

次回記事は11月5日 公開予定!

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この記事を書いた人

香港生活20ウン年。年々クリーンに生まれ変わる香港で、いかがわしさとしたたかさの残り香をひっそりと嗅ぎ漁っています。

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